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C'est la vie!

La vie du Burkina. Jour:073

2010.09.02


La vie du Burkina. Jour:073・Le signe de paix(Peace sign)

以前にも述べたがBurkinaで写真を撮ろうとすると“金を払え!”と四方から言われる。
たとえ仕事に関係することをしているときでさえそう言われるとイラっとしそうなこともある。

でもそんな風に言われてもカメラを構え続けることができるのは、
ここでいろんなコメントをもらえるからだろう。

昨日つぶやいたが、
その1枚1枚が意味ある1枚になるのは、
なかなか面倒だが、そのぶん感動的な作業でもある。

Burkinaでは上のような状況だが、
他の国では写真を撮ってとねだられることもあるらしい。
お金を払うとまで言われた人も中にはいるそうだ。
写真が趣味の自分にはなんとも羨ましい話である。

ただ、こんな撮りづらい国に来れたことも何かの縁、
この国でカメラを構えることによって、学ぶこともまたあるわけだ。

たとえば警戒心むき出しなのは、結局観光地化してないことを表してるのではないだろうか。
旅行者がいないから、この国の人にとって写真と触れる機会は、
ほとんど何かの記念写真(写真屋でプロが撮るもの)か、身分証明の為の写真のどちらかだろう。

個人的記録してあとで振り返るというような、そんな楽しみ方は無いのである。

ましてや芸術だとは誰も思ってないだろう。
仮に彼らにシャッターを任せようものなら、酷い構図で仕上がってくる。

そして世界共通だと勝手に思い込んでいたPeace SignはBurkinaでは通じなかった。

日本人はほとんど写るときに反射的にやってるけど、
本来あれは勝利か平和を表すサイン。

そういえば、BurkinaやAfrique(Africa)の人がPeaceして写ってる写真って観たこと無い。
La vie du Burkina. Jour:073_d0159222_741336.jpg
試しに教えたけどなんか微妙。

そこで改めてPeace Signが成立する背景を考えてみれば、
戦争をやってた国の人間が平和を想って始めるのが自然な流れだろうという答えに行きつく。

つまりこのSignが共有されていないということは、
この国は植民地だった過去はあるものの、武力によるドンパチとは縁遠かったのかもしれない。
そんな気がする。

だとすると、
Peace Signを広める方が良いのか、このままそっとしておくのが良いのか…

カメラを構えることは、そんなことを考えるきっかけにもなる。



今日のつぶやき:
個性が叫ばれる時代。個性の尊重を自分勝手の奨励と勘違いした日本人は「自分さえ良ければ良い」と考える虚しい社会を築きあげた。それぞれ別々の肉体を持つ人間に、等しく心というものが与えられたのは、他人との境界をより明確にするためではなく、感動を分かち合う為だったのではなかろうか?
by nao24d | 2010-09-02 23:00 | Au Burkina Faso