La vie du Burkina. Jour:237
2011.02.13
La vie du Burkina. Jour:237・教会へ
今日はSalomon氏と教会に出かけた。
彼とは12月に同期H氏(BamaのH氏≠GarangoのH氏)の任地Bama(Burkina西部の街で国内一番の米どころ)で出遭った。
もともとKoupélaの人なのだが、親戚が米作りの為にBamaに移住していて、彼は偶然そこを訪れているところだった。
そして同期H氏がとてもお世話になっている農家さんがSalomonさんの親戚一家だったわけで、
私もタイミングよく彼女の任地を訪れたところ知り合えた、という不思議な縁がある。 <不思議な縁、H氏とSalomon氏(H氏の向かって右側の男性)>
Koupélaで一番大きな教会はカトリックのもので、これが自宅のすぐ近くにあるのだが、
彼はプロテスタントで、マルシェや市役所の近所の小さな教会まで行くことになった。
半年のKoupéla生活だが、ここは初めて訪れた場所だった。
ミサの様子をざっくり紹介すると…
あれを賛美歌というのかはよくわからなかったが、
所謂ゴスペルとは違う、なんともアフリカンな感じのキーボードとドラムで演奏されたクリスチャンソングを何曲も唄い、
フランス語と英語で聖書の講読が行われ(ちょいちょいギャグみたいなコミカルな動きが入る)、
あーめん、あーめん、あーめん。
隣人と握手。
そんな感じ。
途中で自己紹介させられて、良くわからないまま歓迎されもした。
感想は、
日曜って安息日じゃなかったっけ?ってツッコミたくなる程、終始パワフルで、
休んで元気を蓄えるというより、勢いで来週も頑張ろうぜ!的な雰囲気だったなぁと思う。
毎週は遠慮したいけど、日本ではあまり目にしない文化を垣間見れる面白いところだった。
私にはキリスト教の細かい宗派の違いはわからないが、
Burkinaで感じるキリスト教はかつて韓国で感じたものと似ている気がした。
どちらの国でもプロテスタントは布教活動に熱心で、
またその教会に居る人たちは底抜けに明るいようなイメージだ。
ほら、こんなに素晴らしいからあなたもイエスさまを信仰しましょうよ!と言わんばかり。
カトリックはもう少し静かに信仰しているイメージがある。
明るい人柄、というより穏やかさを感じる。
布教している姿もあまり目にしない気がする。
そしてBurkinaで初めて出遭ったイスラムは、
日本にいるときの過激なイメージとは違い、これもまたかなり静かなものに感じている。
キリスト教はときにはバスに乗り込んで演説を始めることもあるらしい(確かに韓国ではそういうことがあった)が、
イスラムに関してはそういったことを聞いたことがない。
ただ彼らは1日に5回のお祈りを、街のいたるところで、ときに集団で行う為、それが無言の布教活動になっているのだと思う。
これが最初はものすごい異様な違和感のある光景だったが、最近はものすごく高尚で綺麗な動作に思える事がある。
このように宗教に触れる機会が多いから、自ずと宗教に興味が湧いてくるが、
とどのつまり私はやっぱり仏教や神道のもとで育ち、それに関しても曖昧にしか信仰していないのが現状だから、
結局のところ「唯一絶対的な神」というのを、にわかに信じられるようにまではならない。
世界で神が多くの人の支えになっているけれど、
私が誰かを支えにする事があるとしたら、それはいつも知ってる誰かでしかない。
人の温もりの方が、神の存在より確かに感じられるからかもしれない
(私も神頼みを一時の心の支えにはするのだけれどこれは少し意味が違うだろう)。
しかし神を支えにするのは根本的に人間が間違うから。
間違いを犯す人間をどうして信じられるのか、という理論だ。
もちろん神のような超越的な存在もありえる気がする。
けれど不確かな絶対、これがどうしても私には信じれる対象とならない。
ときには裏切られることがあるにしろ、人の存在は確かだ(私の中では神よりも)。
だから本当に信じられる人と出会えればどんな神でさえそれに勝るものは無いような気がする。
信じれる人がそんなに多く無いから、あぶれてしまって結局神を信じる人が多いのかもしれない。
けれど、それでもどこかにいるであろう自分の支えとなるパートナーを探し続ける道が、私の人生観にはぴったりくる。
信じれる人と出遭わせてくれるのも神だ!
冒頭に書いたSalomon氏との「縁」もパートナーとの「縁」も神が仕組んでいる!
となると堂々巡りでもう言い返せないが(しかも「縁」ってのを信じてたりするし)、
ま、あくまでこれは私の個人的な意見。
世の中にはいろんな考え方をする人がいる。
それを否定はしない。
私の思うことも明日には多分微妙に形を変えているだろうと思う。
だから、そういう宗教もあるんだな、となんとなく自分のフィーリングでつかんでおけたらと思う。 <バイブル>
「自分と異なる人を悪くいう人に立ち向かおう。本を燃やした炎で未来は照らせない。」by潘基文
(国連事務総長・2010年:コーラン焼却事件に関して)
La vie du Burkina. Jour:237・教会へ
今日はSalomon氏と教会に出かけた。
彼とは12月に同期H氏(BamaのH氏≠GarangoのH氏)の任地Bama(Burkina西部の街で国内一番の米どころ)で出遭った。
もともとKoupélaの人なのだが、親戚が米作りの為にBamaに移住していて、彼は偶然そこを訪れているところだった。
そして同期H氏がとてもお世話になっている農家さんがSalomonさんの親戚一家だったわけで、
私もタイミングよく彼女の任地を訪れたところ知り合えた、という不思議な縁がある。
Koupélaで一番大きな教会はカトリックのもので、これが自宅のすぐ近くにあるのだが、
彼はプロテスタントで、マルシェや市役所の近所の小さな教会まで行くことになった。
半年のKoupéla生活だが、ここは初めて訪れた場所だった。
ミサの様子をざっくり紹介すると…
あれを賛美歌というのかはよくわからなかったが、
所謂ゴスペルとは違う、なんともアフリカンな感じのキーボードとドラムで演奏されたクリスチャンソングを何曲も唄い、
フランス語と英語で聖書の講読が行われ(ちょいちょいギャグみたいなコミカルな動きが入る)、
あーめん、あーめん、あーめん。
隣人と握手。
そんな感じ。
途中で自己紹介させられて、良くわからないまま歓迎されもした。
感想は、
日曜って安息日じゃなかったっけ?ってツッコミたくなる程、終始パワフルで、
休んで元気を蓄えるというより、勢いで来週も頑張ろうぜ!的な雰囲気だったなぁと思う。
毎週は遠慮したいけど、日本ではあまり目にしない文化を垣間見れる面白いところだった。
私にはキリスト教の細かい宗派の違いはわからないが、
Burkinaで感じるキリスト教はかつて韓国で感じたものと似ている気がした。
どちらの国でもプロテスタントは布教活動に熱心で、
またその教会に居る人たちは底抜けに明るいようなイメージだ。
ほら、こんなに素晴らしいからあなたもイエスさまを信仰しましょうよ!と言わんばかり。
カトリックはもう少し静かに信仰しているイメージがある。
明るい人柄、というより穏やかさを感じる。
布教している姿もあまり目にしない気がする。
そしてBurkinaで初めて出遭ったイスラムは、
日本にいるときの過激なイメージとは違い、これもまたかなり静かなものに感じている。
キリスト教はときにはバスに乗り込んで演説を始めることもあるらしい(確かに韓国ではそういうことがあった)が、
イスラムに関してはそういったことを聞いたことがない。
ただ彼らは1日に5回のお祈りを、街のいたるところで、ときに集団で行う為、それが無言の布教活動になっているのだと思う。
これが最初はものすごい異様な違和感のある光景だったが、最近はものすごく高尚で綺麗な動作に思える事がある。
このように宗教に触れる機会が多いから、自ずと宗教に興味が湧いてくるが、
とどのつまり私はやっぱり仏教や神道のもとで育ち、それに関しても曖昧にしか信仰していないのが現状だから、
結局のところ「唯一絶対的な神」というのを、にわかに信じられるようにまではならない。
世界で神が多くの人の支えになっているけれど、
私が誰かを支えにする事があるとしたら、それはいつも知ってる誰かでしかない。
人の温もりの方が、神の存在より確かに感じられるからかもしれない
(私も神頼みを一時の心の支えにはするのだけれどこれは少し意味が違うだろう)。
しかし神を支えにするのは根本的に人間が間違うから。
間違いを犯す人間をどうして信じられるのか、という理論だ。
もちろん神のような超越的な存在もありえる気がする。
けれど不確かな絶対、これがどうしても私には信じれる対象とならない。
ときには裏切られることがあるにしろ、人の存在は確かだ(私の中では神よりも)。
だから本当に信じられる人と出会えればどんな神でさえそれに勝るものは無いような気がする。
信じれる人がそんなに多く無いから、あぶれてしまって結局神を信じる人が多いのかもしれない。
けれど、それでもどこかにいるであろう自分の支えとなるパートナーを探し続ける道が、私の人生観にはぴったりくる。
信じれる人と出遭わせてくれるのも神だ!
冒頭に書いたSalomon氏との「縁」もパートナーとの「縁」も神が仕組んでいる!
となると堂々巡りでもう言い返せないが(しかも「縁」ってのを信じてたりするし)、
ま、あくまでこれは私の個人的な意見。
世の中にはいろんな考え方をする人がいる。
それを否定はしない。
私の思うことも明日には多分微妙に形を変えているだろうと思う。
だから、そういう宗教もあるんだな、となんとなく自分のフィーリングでつかんでおけたらと思う。
「自分と異なる人を悪くいう人に立ち向かおう。本を燃やした炎で未来は照らせない。」by潘基文
(国連事務総長・2010年:コーラン焼却事件に関して)
by nao24d
| 2011-02-13 23:00
| 宗教・文化・習慣